INTRO
グローバル進出と聞くと、私たちはたいてい一方向の矢印を思い浮かべます。韓国から出発し、より大きな市場へと伸びていく絵です。ところが、パク・シジン代表の地図は少し違います。韓国を出発して日本で7年を過ごし、韓国に戻ってからは起業経験と多様なキャリアを背負って、再び日本へと向かいます。直線ではなく、大きく一周する形です。
自らを「起業家精神で武装したビジネスコンサルタント」と呼ぶ人。自分の事業よりも、他人の事業がうまくいくときのほうが嬉しい人。このインタビューでは、彼女がなぜそれほど遠回りをしてきたのか、そしてその道のりで何を学んだのかをたどります。もしかすると、最も速い道が常に直線とは限らない、という話なのかもしれません。
インタビュー目次
1. ビジネスアーティスト、そして日本でのスタート
2. 起業というミッション、そして最初の失敗
3. 市場に求められたらやり遂げる、それがBDの仕事
4. 日本進出を目指す韓国企業へのアドバイス
5. 1,000億ウォンを稼いでもらうという目標
ビジネスアーティスト、そして日本でのスタート
Q. 代表はご自身を紹介する場面が本当に多かったと思いますが、そのたびにどのように自己紹介されていますか?
10年ほど前は、自分のことを「ビジネスアーティスト」と紹介していました。事業企画というのは、ある意味で何かを描き続ける仕事なんです。きっぱりと割り切ることができない。あれもやるし、これもやるし、あるときは想像の領域にいたかと思えば、またあるときは財務の数字を合わせなければならない。そうしているうちに、いつも新しい仕事をすることになるんですよね。
ビジネスは硬くて数値的なもの、アートは柔らかくて感性的なもの、とよく言われますよね。でも企画の仕事をしていると、その両方を持っていなければいけないように思えるんです。上下にも左右にも、ずっと行ったり来たりしなければならないし。一つのことだけを考えていてはだめで、思考を常に開いておかなければならないのに、それでもいつも何かが足りない。だから、全方位的にすべてを知りたいという思いが強かったんです。それならいっそ、ビジネスをアートのようにやる人になってみよう、そう名付けました。
そうしてキャリアが20年ほどになって、最近あらためて自分を定義し直しました。今は「起業家精神にあふれたビジネスコンサルタント」と、むしろより明確に話しています。
Q. ご自身をはっきりと紹介できるまでに20年かかったのですね。その旅の始まりがとても気になります。最初のキャリアはどのようにスタートされたのですか?
日本に渡って社会人生活を始め、最初の仕事が企画でした。企画というと、ちょっとかっこよく聞こえるじゃないですか。最初はイベントマーケティング、プロモーションマーケティングから始めました。そこから少し進んで事業企画を任されるようになったのですが、やっているうちに、結局は数字を知らなければならないとわかったんです。それで数字の勉強が必要になって大学院に進み、経営学を専攻しました。戻ってくるとIR企画のような仕事も任せてもらえるようになり、事業企画をしているうちに、ついには経営戦略まで手がけるようになりました。そのすべてを一つの会社で経験したんです。
Q. スタートが日本だったのには、明確な理由があったのでしょうか?
実は、日本で働きたいと考えたことは一度もなかったんです。本当に偶然の機会で行くことになりました。大学を卒業して、アメリカで1年ほど勉強したくてビザまで取っていたんです。そのころ従兄が兵役特例制度を利用して自分の会社を立ち上げていて、アメリカに行く前にお小遣い稼ぎも兼ねて仕事を手伝ってほしいと言われたんです。
そうして仕事を手伝っていたら、従兄が日本によく知っている知人がいるから一度会ってきたらと橋渡しをしてくれました。その後も連絡を取り合うようになったのですが、その方が後に独立して会社を立ち上げたんです。その会社が3年目くらいになったころ、私にオファーをくださいました。やり取りを重ねるうちに、その方にも日本という国にも良い印象を持つようになっていて、日本は韓国よりも学ぶ機会が多そうだと思い、挑戦してみることにしました。
Q. そうして偶然行った日本に、なんと7年もいらっしゃったのですね。転職せず、ずっと一つの会社にいらしたのですか?
小規模な中小企業だったからこそ、むしろ可能だったのだと思います。一つの会社でしたが、本当にさまざまな職務を経験できたんです。大企業だったら、あれほど多くのことを経験するのは難しかったでしょうね。そして、それが性格によく合っていました。ただ、物足りなさはありました。十分に学べていないような感覚です。友人たちを見ると研修もたくさん受けていてシステムも整っているように見えたのですが、うちにはシステムがほとんどなかったんです。一人でぶつかりながら、すべてを自力で探り当てなければなりませんでした。
起業というミッション、そして最初の失敗
Q. その物足りなさが、退職の理由でもあったのですか?
いいえ、その物足りなさから大学院に行こうと決めたんです。まだ辞めるには早いという思いもありました。いずれにせよ一区切りは経験しないといけないのに、3年で辞めるのはさすがに早すぎますよね。じゃあどうやって踏ん張ろうかと悩んで、いっそ外にもっと挑戦的な環境をつくってみようと思い、大学院に行きました。そこで刺激を受けると、不思議なことに会社でもより重要な仕事を任されるようになったんです。
Q. その大学院が、起業のきっかけになったそうですね。
私が行ったのは、日本で社会人が多く通うビジネススクールでした。伝統的には早稲田や慶應のビジネススクールが有名ですが、そこはそういう学校ではなく新興の学校でした。ただ、学長がグローバルにとても有名な方だったんです。日本の大手財閥系グループでスピード出世した後に独立してベンチャーキャピタルを立ち上げ、名声を築いてからビジネススクールを設立したケースです。「アジアのハーバードをつくる」というキャッチフレーズを掲げ、Forbes JAPANに載るほどのスター級CEOでした。
名声がそのまま学校につながるわけではないですよね。でもこの方は、日本の上場企業3,000社をほぼすべて営業して回るようにして、中間管理職層を単科生として集め、そこから全日制の学生へと引き込むマーケティングが本当に上手だったんです。それで今では、卒業生が日本のビジネス界を網羅する7,000人規模のネットワークになっています。早稲田・慶應がアカデミックだとすれば、ここは完全にビジネススクールとして定着したんです。

私が入ったときはちょうど3年目で、まだ有名ではありませんでした。それがむしろ私の戦略的な選択だったんです。早稲田や慶應には、漢字で2〜3ページの論文を1時間以内に書き上げる試験があったのですが、私はそこまで日本語が得意ではありませんでした。それに韓国人も多いですし。でもこの学校には、当時は日本人しかいなかったんです。それならアジア人の一人として、なんとか自分を選ばせることができるかもしれないと思いました。それで周りの人を総動員して、願書を見てもらったり、面接のトレーニングをしてもらったりして、なんとか入学しました。幸い、戦略がうまくはまりましたね。
入ってみると、学長が「起業は絶対にすべきだ」としきりにけしかけるんです。私は会社の仕事をもっとうまくやるために、財務でも経営者マインドでも学ぼうと思って行ったのに、今度は起業しろと言われる。そうやって起業家精神を学び続けて、卒業するころにはっきり結論が出ました。能力によって起業できる人とできない人が分かれるのではなく、起業はこの時代を生きる人なら必ず一度はやってみるべきものだ。成長したい人にとって、起業は最大の自己啓発のツールだ、という結論です。年を取るほどできなくなるという切迫感もありました。

Q. 会社の仕事をもっとうまくやるために行ったのに、むしろ起業の明確なきっかけになってしまったのですね。
そうなんです。当時のうちの社長は典型的な営業マンタイプで、そういうリーダーしか見てこなかったので、私のような性格では起業は難しいだろうと思っていました。でも学長はまったく違うタイプだったんです。「ああ、ああいうリーダーシップもあるんだ。リーダーシップは必ずしも一つのスタイルだけじゃないんだ。それなら自分なりのリーダーシップを見つけていけばいいんだ」と、そう思えるようになりました。一つの会社に長くいたので、リーダー像もいろいろなケースを見られていなかったのですが、学長が良いきっかけになってくださいました。
もともと起業への思いはそれ以前からありました。従兄の会社の仕事を見ていて強く感じたんです。当時は通貨危機(IMF危機)を経て、ドットコムバブルもはじけた後で、ちょうど私が大学を卒業するころでしたが、就職イコール安定という公式は私の頭にはありませんでした。いつかは人が傘の下から出て、自分の武器を自分でつくる時代が来るはずで、そのときになってから出るのでは遅いと思ったんです。うちは保守的な家庭で、父は安定した道を歩めと言いましたが、従兄の会社に行ってみると、自分が生きていた世界はなんて狭かったんだろうと思いました。その従兄の周りの友人たちが、みんな起業していたんです。起業があまりにも当たり前の世界。起業しないことのほうが、むしろ機会費用のように感じられました。
Q. 7年勤めた末にようやく韓国に戻って起業されたわけですから、本当に悩まれたことと思います。日本で起業するか、韓国でするかについても。
日本では「オール・オア・ナッシング」というのが結論でした。完全に日本人になるか、さもなければ早く抜け出すか。中途半端に残ると、韓国に戻っても苦労しそうだと思ったんです。日本の人たちは、私たちのように早く成長しなければ、早く挑戦しなければという気持ちがかなり少ないんです。現状維持、今がいい、ここでもう少しうまくやろう、という人が多く集まっている場所です。だから私がハングリーな気持ちで早足で歩くと、変な目で見られたり、なかなかついてきてもらえなかったりします。「そこまでやる必要ある?」と言われながら。
そういう社会で暮らしていると、停滞するのが当たり前になってしまうと思いました。ちょっと家族に会いに韓国に戻ると、みんな人にぶつかりながらせかせか歩いているんです。それに違和感を覚えること自体、自分はもう日本社会に適応してしまったんだ、スピードが違うんだと感じました。暴れ馬とまではいかなくても、走りたいときに走れることが不自然ではない、そんな自分になりたかったんです。現実的にも、一つの社会に完全に根を下ろすのは本当に難しいことです。外国人が韓国に来てどれだけ頑張っても、良いチャンスは当然韓国人に先に回るのと同じように。それで、生理的にも戦略的にも韓国のほうがいいと判断しました。それが2013年でした。

Q. では、現在のSJカンパニー(에스제이컴퍼니)が最初の会社ではないのですね?
はい。当時は「ドクム(더꿈)」という会社をつくって、プラットフォーム事業をしていました。クラウドファンディングだと思っていただければ大丈夫です。前の会社でプラットフォーム事業を一つ担当したことがあったのですが、そのときは会社の支援をすべて受けながらやっていたので、それがどれほど難しいことか分かっていなかったんです。それで開発者も採用し、デザイナーも採用し、顧問の方もお迎えして始めました。初めての事業だったので、どうしても肩に力が入ってしまって。本当にばかげたことを一通りやりながら学びました。
自分なりにずっと計算してみたら、「これは自分がやるべき事業じゃない」と思えて、2015年にプラットフォーム事業はたたみました。ドクム自体は一度ピボットして2016年末まで続け、12月に廃業しました。メンターの方がいらっしゃったのですが、私が苦しんでいるのを見て、なぜ起業したのか理由を尋ねられたんです。そのときの私の起業の目標は、自分だけのプロジェクトを持つ人たちがそれを達成できるよう手助けする、呼び水になる仕事でした。それがクラウドファンディングのビジネスですよね。
でもメンターは「それを必ずしも事業としてやる必要はない。コンサルティングもできるし、事業企画が君の得意分野なんだから、早くそちらに切り替えて力をつけ、お金を稼いでから、後で奉仕するつもりでその事業をやったほうがいいんじゃないか」とおっしゃって、もう辞めなさいとはっきり言われました。そのときはプライドが邪魔して、1年間そのメンターに会いに行きませんでした(笑)。エゴが強かったんですね。その後あらためて訪ねて行って、「おかげで本当に楽になりました。ありがとうございます」とご挨拶しました。

市場に求められたらやり遂げる、それがBDの仕事
Q. 最初の起業をたたんだ後、再び会社に入られたのですか?
2016年以降は、日本の会社が韓国に設立した法人の経営に参画する機会がありました。そこで取締役のポストをいただいて、7年ほど在籍しました。その会社に行く前の2016年から2018年までの2年ほどは、次のステップのためにいろいろなことを試していました。大学で教員として講義もしましたし、6か月ほどはソウル創造経済革新センター(서울창조경제혁신센터)でマネージャーとして起業支援(インキュベーション)の仕事もしました。
Q. 代表は本当に休まれないんですね。充電の時間を持つこともできたと思いますが。
起業していたときは気持ちのほうがとてもしんどかっただけで、体がきついわけではなかったんです。頭の中はずっと回っているのに、物理的な時間は会社勤めのときよりずっと多いんですよ。だから、その時間にいろいろなことを試していたんだと思います。

Q. 取締役として過ごした7年間は、それまでの会社生活とはまた違ったのではないでしょうか。
経営管理をして、初期のセッティングをして、そのうち自分が直接実務に飛び込まなければならない状況もありました。新規事業をつくって初期KPIを達成するときや、初期顧客を集めてSNSで話題をつくるためのセッティングなどは、私がたくさん手がけました。日本の外国人に特化した不動産会社で、最初は韓国人が日本に行くときにサポートするビジネスだったのですが、韓国も外国人が200万人訪れる国になったことで、日本で展開しているビジネスモデルをそのまま韓国に根付かせてローンチする仕事をしていました。
Q. 代表のさまざまな経験が集まって、シナジーを生み出せる事業だったのではと思います。そうして7年を過ごした後、再び起業を選ばれた決定的なきっかけはあったのでしょうか?
決定的なきっかけはコロナでした。2022年に会社がほぼ全面ストップしてしまったんです。それでも日本本社の社長は、一人も解雇しませんでした。人件費が出ていき続けているのにです。私は妙な責任感があって、「自分は一人分以上の働きをしないといけないのに」と思っていました。取締役としてその金額をもらうのが申し訳なくてたまらなかったんです。それで出社する日を半分に減らしました。「私はほかで稼ぐので、まずは会社の経費を減らしましょう。実務担当者を投入して、私は抜けます」と。その後、会社を離れる直接のきっかけになったのは、日本本社が上場準備のために経営陣を全員日本人に入れ替えたことでした。ちょうどうまく区切りをつける良いきっかけになりました。
会社をつくろうと思って辞めたわけではなかったのですが、そのころ外部の仕事が増えていきました。最初の起業での学びがあったので、条件が整うまでは本格的な起業はしない、という原則があったんです。ところが見てみると、日本ブームがまさに来ているんです。人にはタイミングというものがあるようですね。日本の人脈が一人、また一人と韓国と仕事を始めるようになって、「こういう人を紹介してほしい」という問い合わせが頻繁になりました。そんな折に、メンターから日本にIRプログラムを送り出す仕事を担当してほしいと頼まれて、久しぶりに行った日本がとても良かったんです。それで2025年12月ごろから、完全にこちらにフォーカスするようになりました。

Q. コンサルティングは、ある意味で第三者として助言し経験を共有する仕事なので、自分で直接実行することはできませんよね。それがもどかしいとか、自分は口だけなのではと思うことはありませんか?
それがコンサルティング業の最大の盲点ですよね。事業企画をしているときも、組織の中でいつもそういう渇きがあります。でも私は「市場が必要とするならやる」というスタンスです。企画が必要なら企画をしますし、スタートアップから「実行もお願いします」と言われれば実行もします。「私は企画だけ、実行はほかの人が」というわけではありません。実行するには戦略が必要なので、その部分を一緒にやり、企画と実行をセットで進めるんです。戦略企画は私の専門性がより強い領域で、これを引き出すことが私にとっては切り札のようなものです。人には誰しも一つは取り柄があると言いますよね。
だからといって、私がマーケティングの専門家というわけではありません。Aというマーケターと私を比べたら、当然Aのほうがずっと上手です。ただ、戦略コンサルティングに加えて、自分がやるべき部分はひとまずできる、ということです。日本側との仕事でも、私の役割はブリッジになることが多いです。すべてを専門的に手がけるというより、まず顧客のニーズがあるかどうかをテストするのは専門家でなくてもできますから。ニーズが見つかれば、それを一番うまくやれるチームに引き継ぐんです。
日本進出を目指す韓国企業へのアドバイス
Q. 日本から韓国へ、韓国から日本へと進出する方々に数多く会ってこられたと思います。最近はグローバルといえば、みんな日本を思い浮かべますよね。双方が共通してぶつかるポイント、誰もが繰り返してしまうミスはありますか?
確かにあります。韓国企業にも日本企業にも、どちらにもそれぞれのプライドがあります。韓国から日本に進出する方々は、大企業や成長段階のスタートアップなど、成功体験を持って行くケースが比較的多いんです。韓国で成功したから行くわけなので、「うちのはすごいんだから、うちと同じくらいすごくやってくれるチームはある?」という気持ちで来られることが多いですね。逆に日本のチームに聞くと、日本のチームは「これが日本市場で通用するの?」という目で見ます。韓国側は当然うまくいくと思っていて、日本側は日本人の目線に合わないと思っているわけです。
それを打ち破るには、「自ら謙虚になる」か、「自分ですべて完璧にやる」か、あるいは互いの立場を理解した仲介役が必要です。最も大切なのは、コミュニケーションが一度では終わらないということです。何度も起こるんです。するとまたエゴが出てくる。「私は私、あなたはあなた」というふうに。その間でずっと役割を果たし、また会う場をつくらなければなりません。だからよく見ると、成功しているケースは、韓国で大きく成功して大きな資本で日本の会社を買収するか、日本に別途会社を設立して日本チームを組み、彼らが主体的に事業を進められるようにしたケースです。LINEもMUSINSAもそうですね。
Q. グローバル進出の中でも、日本は特に時間がかかるとよく言われます。私は、日本の消費者は一度使ったブランドをなかなか変えないからだと聞いていました。
日本の会社は私たちのものを初めて見ると、まずどの会社が先に導入したのかを聞いてきます。結局、最初のリファレンスを獲得するのに時間がかかるということです。消費者として見てもそうです。一度入り込めば長続きすると言いますよね。使っていたボールペンをずっと使い続けて、ほかのものはあまり探さないということです。日本市場は非常に保守的で、独自の境界線があります。そんなプライドのある市場を切り開くのに加えて、私たちが韓国市場をきちんと攻略するのでさえ難しいのに、まったく知らない市場に挑むのはどれほど難しいことでしょうか。だから2〜3年は優にかかると見ておくべきだと、いつもお伝えしています。

Q. それでも最近、日本があらためて注目されているきっかけは、結局K-カルチャーですよね。代表も以前とは変わったと感じられますか?
スピードというより、層が変わったのだと思います。以前、韓国を好きな層は本当に50代の女性たちでした。『冬のソナタ』をご覧になって。新大久保のコリアンタウンに行くと、そういう方々がサムゲタンを召し上がっている雰囲気でした。今行ってみると、10代、20代が本当に多いんです。端的に言って大きく変わりました。でも、こうも見なければなりません。日本全体の市場を100とすると、そのKファン層はごく一部です。まだギャップがあるんです。ただ、一度突破口が開けば、じわじわと広がっていくのではないかという期待があるわけです。まだすべての市場が変わったわけではないと見ています。
Q. 少なくとも2〜3年は挑戦し続けられる体力と予算を備えて臨んでも、うまくいくかどうかという市場だと見るべきなのですね。
一番賢いのは、進出する2〜3年前から前もって勉強することです。大きく投資せずに。法人を設立するのも慎重であるべきだと思います。日本市場には、文化を完全に理解するという謙虚な姿勢で臨むべきだと考えています。東南アジアに行くとき、アメリカに行くときと同じくらい謙虚に。ところが私たちは、アメリカに行くときほど日本には謙虚に臨んでいない気がします。投資が大きくかかる市場ですが、それでもそれに見合うリターンはあると見ています。
1,000億ウォンを稼いでもらうという目標
Q. さまざまな試行錯誤を経て、日本が生業として重要になったわけですが、今年この仕事に集中するために取り組んでいることはありますか?
目標を決めました。10年後の目標なのですが、それはキャッシュの創出です。スタートアップの最大の課題はキャッシュをつくることなんです。だから「私と出会った顧客企業のキャッシュフローを、今後10年間で累計1,000億ウォン生み出そう」というのが私の目標です。
今年は、その可能性のあるお客様2社と出会おう、ということです。仕事を受けて長期契約につながるお客様2社です。そういう方々と出会うことが今年の目標で、日本市場も引き続き謙虚な気持ちで勉強していこうと思っています。
Q. 代表の意思決定には一貫した基準があるようですね。始まりも従兄を手伝うことでしたし、会社でもオーナーの目標を一緒に達成しようとされ、事業もクラウドファンディングで誰かを手助けする仕事でした。そして今の目標も「自分が1,000億ウォン」ではなく「自分によって1,000億ウォンを稼いでもらう」ことなんですね。
考えてみるとそうですね。誰かを助けることで得られるやりがいと達成感が一番大きいんだと思います。そうしているときに、私自身も一番うまくいくんです。人がうまくいってこそ自分もうまくいく気がして、それが本当に嬉しい。一人だけうまくいくのは、正直孤独で寂しいんですよ。孤独なのは平気なんですが、寂しいのはちょっと。一緒にうまくいくと、それがどんどん大きくなっていくんです。
Q. その2社のクライアントを選ぶ、代表ならではの基準や条件はありますか?
まず、クライアントの準備ができていることです。心構えや予算といったものが整っている必要があります。私が「上から見下ろす視点」で言っているわけでは決してありません。創業者の方々は本当に素晴らしいですから。ただ、準備ができていない状態で来られると、得意なことまでうまくできなくなってしまうんです。だから売上、利益、人員といった部分をすべて見ます。そして何より、日本への理解、つまり代表ご自身が日本を本当によく知っていて愛着を持っていないと、成功しないんですよね。そうであってこそ市場を学び続けて、うまくいかないからといってすぐに撤退せず、なんとかやり遂げようとされるんです。それがないと、壁にぶつかって芽を出す前に「日本はうちには合わない」と早まった判断をして撤退してしまいます。
何より大切なのは、日本市場にニーズがあることです。それが一番重要です。ニーズがあって、それでも進出すると決めたとき、そこでようやくスタートなんです。その偉大な始まりと終わりに私が一緒にいられたら、これ以上の喜びはないと思います。
OUTRO
パク・シジン代表の話をすべて聞き終えると、冒頭の「一周」が違って見えてきます。
日本から韓国へ、起業から失敗へ、会社へ、そして再び日本へ。遠回りしてきたように見えるこの道が、実はひとつの一貫した思いでつながっていたことに気づくからです。従兄を手伝っていた最初の気持ち、会社のオーナーの目標を一緒に達成しようとした気持ち、誰かのプロジェクトが世に出るための呼び水になりたかったクラウドファンディング、そして自分によって1,000億ウォンを稼いでもらおうという今の目標まで。彼女はずっと、人がうまくいくことの中で、自分自身が一番うまくいく人でした。
最大の失敗だったという最初の起業も、会社員生活の中での痛恨の経験も、彼女にとっては捨てられた道ではなく、今の場所へと連れてきてくれた回り道だったのだと思います。日本市場には謙虚に、長く踏ん張る覚悟で臨むべきだというアドバイスは、もしかすると市場についての話である前に、彼女自身がひとつの社会とひとつの仕事をくぐり抜けながら身をもって学んだ姿勢なのかもしれません。
最も速い道が、常に直線とは限りません。遠回りしてきた人だけが、地図全体を描けるのですから。パク・シジン代表はその地図を手に、今ふたたび、自分が最もよく知る市場へと向かっています。
編集・文:イ・ヘミ gbd.hyemi@gmail.com



